営業職の退職を引き止められたとき
- 「数字を達成してから」「後任が育つまで」に法的な拘束力はない
- そもそも労働契約の不履行について違約金や損害賠償額をあらかじめ定めることは労働基準法16条で禁止されている
- 断り方は048と同じ「結論→感謝→理由は変えない」の型を営業職の場面に当てはめて使う
- 引き継ぎの範囲は036の整理どおり法律上の義務ではなく信義則上の配慮
- 無期雇用なら退職の意思表示から2週間で退職の効力が生じる(民法627条1項)。就業規則に「1ヶ月前」等の定めがあっても民法が優先するという解釈が一般的
- 1退職を伝える
- 2数字で引き止め
- 3型で断る
- 4顧客分は引き継ぐ
- 5効かなければ代行
この記事の内容
営業職を辞めようとすると、他の職種では出てこない引き止め文句にぶつかります。「今月の数字を達成してから」「お前の顧客だから困る」「後任が育つまで待ってくれ」。どれも一見もっともらしく聞こえますが、法的な拘束力があるかどうかは別の話です。この記事では、営業職特有の引き止め文句を1つずつ分解し、断り方を示します。
- 「今月の目標を達成してから辞めろ」と言われて、いつまでも辞められる気がしない
- 「お前が抜けたら顧客が困る」と言われると、強く言い返せない
- 引き継ぎが終わらない限り辞めさせてもらえないのではと不安
結論:数字も引き継ぎも、退職を止める理由にはならない
| 引き止め文句 | 法的な効力 | 実務上の対応 |
|---|---|---|
| 今月(今期)の数字を達成してから辞めろ | 退職の権利とは無関係。応じる義務なし | 結論を変えずに繰り返す |
| お前の顧客だから、後任が育つまで待て | 退職の権利とは無関係。応じる義務なし | 引き継ぎには協力しつつ退職日は動かさない |
| 目標未達のまま辞めたら損害賠償する | 「辞めたら◯◯円払え」のような違約金・賠償額の取り決め自体が労働基準法16条で禁止されている。実際に賠償が認められるかは個別の事情によるため、ここでは断定しない | 脅しに応じず、心配なら労基署・弁護士に相談 |
| 引き継ぎが終わるまで辞めさせない | 引き継ぎの完了は退職の条件ではない | 民法627条1項により意思表示から2週間で効力発生 |
| 顧客への挨拶は自分でやりたい | 会社の資産である以上、会社を通すのが原則 | 会社に進め方を確認する(詳細は036) |
営業職の引き止めが強く効きやすいのは、「自分が抜けたら数字が落ちる」「自分がいなくなったら顧客が離れる」という個人の責任感につけ込まれやすいからです。ですが、数字も顧客対応も、最終的には会社の仕組みの問題であって、一人の担当者が背負い続けるものではありません。
「今月の数字を達成してから」への断り方
期末や月末が近いタイミングで退職を伝えると、ほぼ確実に出てくるのがこの文句です。「あと少しだから」「達成してから辞めれば円満だろう」という言い方をされることもあります。
ここでまず押さえておきたいのは、退職の意思表示のタイミングと、営業目標の達成・未達は法律上まったく別の話だということです。無期雇用(正社員)であれば、退職の意思表示をしてから2週間が経過すれば退職の効力が生じるとされています(民法627条1項)。目標を達成したかどうかは、この期間の計算に一切関係しません。
断り方は、048で扱った基本の型と同じです。
「達成してから辞めるべきというお気持ちは分かりますが、退職日は〇月〇日で変わりません。残りの期間でできることはやります」
「達成してから」に応じてしまうと、次は「来月の分も」「今度は後任が決まるまで」と、区切りが際限なく後ろに延びていきます。一度応じると、次の区切りを新しく作られるというのが、この手の引き止めの構造です。応じるかどうかで迷ったら、最初に伝えた退職日を動かさないことを優先してください。
「お前の顧客だから」「後任が育つまで」への断り方
もう1つの定番が、担当している顧客や後任の育成状況を理由にした引き止めです。「この顧客はお前にしか話さない」「後任が独り立ちするまで、あと半年は必要だ」といった言い方です。
これも、退職を法的に止める理由にはなりません。ただし、048の一般的な引き止めと違い、営業職の場合は引き継ぎそのものへの協力を惜しまない姿勢を見せながら、退職日は動かさないという2段構えが有効です。
「引き継ぎには協力します。担当の進捗と顧客ごとの注意点はまとめて渡せますので、退職日の〇月〇日までにできる範囲で進めさせてください」
引き継ぎの法的な位置づけ(義務ではなく信義則上の配慮であること)や、顧客への挨拶・顧客情報の扱いの詳しい整理は、別記事「営業職の退職|引き継ぎと顧客への挨拶はどこまで必要か」でまとめています。ここで大事なのは、「引き継ぎをやる姿勢」と「退職日を守ること」は両立できるという点です。引き継ぎに協力する代わりに退職日を延ばされる、という交換条件に応じる必要はありません。
数字未達を理由に損害賠償されることはあるか
「目標を達成しないまま辞めたら、会社に損害賠償を請求されるのでは」という不安を持つ人もいます。ここは慎重に整理します。
一般的な整理としては、通常の給与体系(固定給、または固定給+インセンティブ)で働く営業職の場合、単に目標(ノルマ)を達成できなかったというだけで、労働者に損害賠償責任が生じることは考えにくいとされています(厚生労働省「確かめよう労働条件」には営業目標未達単独の損害賠償責任を扱う解説ページは見当たらず、これは複数の弁護士・社労士事務所の解説記事に共通する見解です)。目標未達は、営業という仕事の性質上、通常起こりうる範囲の出来事であり、それ自体を「損害」として会社が請求するには、目標未達と実際の損害との間に明確な因果関係を示す必要があるためです。
これは、別記事036で扱った「引き継ぎ拒否による損害賠償」の考え方と同じ構造です。実際、引き継ぎ不足を理由にした会社側の請求について、入社1週間ほどで退職した労働者への200万円の請求のうち70万円のみが認められた例(東京地裁平成4年9月30日判決、いわゆるケイズインターナショナル事件)や、約1,270万円の請求について会社側の主張と損害との間に因果関係が認められないとして退け、逆に会社側に110万円の支払いを命じた例(横浜地裁平成29年3月30日判決)があり、いずれも損害と因果関係の立証がハードルになっています。ノルマ未達そのものを理由に労働者への損害賠償請求が認められた判例は、弁護士・社労士事務所の判例解説や労働問題の解説記事を調べた範囲では見つかりませんでした(2026年9月6日時点。ノルマ未達をめぐる裁判の解説は解雇の有効性を争ったものが中心で、労働者に賠償を命じた例の紹介は確認できていません)。
ただし、次のようなケースは話が別になり得ます。
- 契約を意図的に成立させなかった、顧客に虚偽の説明をしたなど、背信的な行為が伴う場合
- 会社の備品・経費を私的に流用するなど、目標達成の過程で別の問題がある場合
「数字が残せなかったから訴える」という単純な話にはなりにくい、というのがこの節の趣旨です。強い言い方で脅された場合でも、その場で言い返す必要はなく、不安が大きいときは労働基準監督署や弁護士に相談してください。
引き継ぎはどこまでやればいいか
営業職の引き継ぎで最低限まとめておきたいのは、次の3点です。
- 進行中の案件の進捗(見積もり中・契約直前・入金待ちなど、今どの段階にあるか)
- 顧客ごとの注意点(担当者の名前、過去のトラブル、次回連絡すべき時期)
- 次のアクション(いつまでに誰が何をするか)
これをA4数枚程度のシートにまとめれば、実務上は十分とされています。何ヶ月もかけて完璧な引き継ぎ資料を作る必要はありません。引き継ぎの法的な位置づけ、顧客情報を私的に持ち出すことのリスク(不正競争防止法・個人情報保護法との関係)、転職先で同じ顧客を担当する場合の競業避止義務については、詳しくは別記事「営業職の退職|引き継ぎと顧客への挨拶はどこまで必要か」で扱っています。
それでも止まらないとき
同じ断り方を繰り返しても引き止めが収まらない場合、次の2つを知っておいてください。
1つ目:退職に会社の同意は不要
無期雇用の正社員であれば、退職の意思表示から2週間が経過すれば退職の効力が生じるとされています(民法627条1項)。就業規則に「1ヶ月前に申し出ること」とあっても、厚生労働省「確かめよう労働条件」(辞職)は、2週間を超える解約予告期間の設定や退職許可制は退職の自由を制限するため無効になるとの考え方を示しています。ただし、民法627条1項を労働者保護のための強行規定とみて2週間で足りるとする見解(多数説)と、就業規則の定めを優先させる見解(少数説)とに学説が分かれており、これを統一する最高裁の判断は見当たりません(学説が強行規定説(多数説)と任意規定説(少数説)に分かれており、統一判断は確認できていません。一次情報は確認できず)。実務上は就業規則に沿って早めに伝えるのが望ましいですが、最終的な拠り所として知っておく価値はあります。
2つ目:直接のやり取り自体を避けたい場合
数字や顧客を理由にした引き止めが強く、上司と顔を合わせること自体がつらい場合、退職代行Jobs、弁護士法人ガイア、退職代行ネルサポート、円満退職ユニオン のような退職代行サービスを使えば、退職の意思表示を代わりに会社へ伝えてもらえます(※2026年8月時点の調査。運営元が民間企業か労働組合か弁護士かによって交渉できる範囲が変わるため、依頼前に各社公式サイトで対応範囲を確認してください)。引き継ぎ資料は事前に自分で用意し、退職代行を通じて会社に渡す形になることが多い点は、他の職種と同じです。
次にやること
退職を伝える前に、進行中の案件の進捗と顧客ごとの注意点だけでも簡単にメモしておいてください。数字も引き継ぎも、退職の権利そのものを止める理由にはなりません。引き止められたら、最初に伝えた退職日と理由をそのまま繰り返す。それだけで、営業職特有の引き止めの多くはかわせます。
※本記事は2026年8月時点の一般的な情報整理です。個別の雇用契約・就業規則・給与体系の内容によって状況は異なります。判断に迷う場合は、勤務先の担当部署や弁護士・労働基準監督署にご確認ください。
出典 - 民法627条1項(期間の定めのない雇用契約における解約の申入れと、申入れの日から2週間経過による終了。全文で確認済み) - 東京地裁平成4年9月30日判決(いわゆるケイズインターナショナル事件。入社1週間ほどで退職した労働者への200万円の請求のうち70万円を認容。厚生労働省「確かめよう労働条件」辞職ページにも掲載) - 横浜地裁平成29年3月30日判決(労働判例1159号5頁。約1,270万円の請求について因果関係なしとして棄却、逆に会社側へ110万円の支払いを命令) - 厚生労働省「確かめよう労働条件」辞職(https://www.check-roudou.mhlw.go.jp/hanrei/taisyoku/jisyoku.html)の解説(2週間を超える解約予告期間の設定・退職許可制はいずれも退職の自由を制限するので無効との考え方を掲載。個別の裁判例までは示されていない。2026年8月31日確認)